図書館で取り寄せをお願いしていた本がやっと届き、ちょうど読み終わったので、今回はこの本をご紹介したいと思います。
繁延あづさ(著)『ニワトリと卵と、息子の思春期』
小6の長男が、「ゲーム買うのやめるからさ、代わりにニワトリ飼わせて」と言い出したことにより、ペットでなく、「家畜」としてニワトリを飼うことになる一家。採卵し、販売して小遣いを稼ぎ、最後には絞めて食べる長男と、それに巻き込まれていく家族の関わりを綴ったエッセイです。
養鶏の本をボロボロになるまで読み、ニワトリを飼う土地を自分で見つけてきたり、ビオトープを自作しようとしたり、株を自ら始めたり、自らニワトリの首を切り、捌くところまでやる。
本書を読んでいると、この長男くんの探究心と逞しさに、まず驚愕します。しかも、この長男くんがすごいのは、これが、「稼ぐ」ために、経済の流れを体験するために、そして親が子供に対して持つ「お金」と「権限」に立ち向かう為にする養鶏であるというところなんですよね。
「オレにとって何が必要かは、オレにしかわからない。お母さんにはわからない!」
これは長男くんの言葉なんですが、筆者と同じく、私も思春期に同じように思ったことがあったなと懐かしく思います。そして、いつか私も同じことを息子から言われるのかなあと思います。それが健やかな成長の証と分かっていても、たぶん実際言われたら複雑な気持ちになるでしょうね。
2歳の我が息子は、まだ当面は庇護すべき存在であり、もし放っておいたとしたら、命を落としかねない・・・それくらい危なっかしい存在です。でもいつかはこんな状況にも終わりが来て、「お母さんにはわからない!」と言われる日が来る。そしたら今度は逆に、庇護することが「過保護」じゃないかという不安が出てくる。そんな時、私は子供の手を鮮やかに離すことができるのだろうか、と色々考えさせられます。
もし私が息子を手放せていないのだとしたら、私の中に巣くう母と鬼の仕業だと思う。日々反発し合い、少しずつ離れてきたと思うのだけど、まだ手放すものが残っていて、それを母と鬼がつかんでるのかもしれない。
「母、儘ならぬもの」という章で、このように筆者は語ります。そして同時に、この「儘ならぬ母」もまた生態の一部と思えるようになったとも書かれています。
母である私たちはきっとそれぞれのタイミングで、鬼の形相を持った「儘ならぬ母」を自分の中に発見するのでしょう。実際私は今でも些細なことで子供にイライラし、きつく当たってしまうことがありますし、出産直後などは軽い産後うつになり、毎日泣いて過ごしていたことがありました。子育てというものは何もかも思い通りにいかないもので、自分の腹黒さも弱さも目の当たりにして自分という存在にがっかり。でもどうしようもない。
しかし、悪いことばかりではなくて、人生初のその苦しみの中から、この短期間で私は何度も新しく生まれ直せているという気がします。がっかりしてドン底に落ちて、ゼロからまた新しい自分をちょっとずつ築いているような感じ。もしかするとこの「儘ならぬ母」の苦しみは、子供を持つことで贈られるギフトとも言えるものかも?と、本書を読みながら考えたりもしました。
それと同時に、思春期になったら、「ギフト」なんて言える甘っちょろいもんでもないだろうな、という思いもよぎります。やがて来るその日を、不安に思いつつ、楽しみにしつつ、子供と自分の変化を見つめていきたいですね。
お子さんが思春期を迎えている方にも、そうでない方にも、とてもおすすめのエッセイです。おそらく子育てを経験した方にはうんうんと頷けることばかり。
筆者の生の言葉で語られた文章もとても魅力的です。
興味を持たれたら、ぜひお手に取ってみてくださいね。